群馬県 館林市 代官町。
ここに、館林総鎮守とされている、長良神社があります。
長良とは「藤原長良(ふじわらのながら/ながよし)」という、平安時代初期から前期にかけて実在し、上野国(現:群馬県)の国主としてこの地を治めたことのある人物です。
広く地域からの人望があった藤原長良
境内にある「鎮座由来」によれば、藤原長良(以後:長良)が祀られることになったのは、長良の没後、春日大社の末社として祀られていたのを、上野国住人の赤井良遠という人物が現在の群馬県邑楽郡千代田町瀬戸井に勧請したのが始まりだそうです。
その後、館林城主に赤井山城守照光がつくと、ここ館林にも勧請されたとのこと。
この「長良神社」は、群馬県や埼玉県などに50社以上も存在しているようです。はじめに千代田町瀬戸井に勧請した、館林城主の家系である赤井氏のみならず、藤原長良がいかに地域の人々から慕われるような善政を施していたかが想像できます。
神社の前より。
神社の前の標柱(しめばしら)には「郷社 長良神社」とあります。
郷社:神社社格の一つ。県社の下、村社の上に位置する。(出典:コトバンク)
側面には「御大典記念 昭和三年一一(じゅういち)月」と彫られています。
昭和3(1928)年11月に執り行われた昭和天皇即位事業の記念として建てられたものである事を示しています。
鳥居前より。駐車場は鳥居の右側から境内に入り、20台程度は停める事が出来そうです。
館林市では「日本遺産 館林 里沼」と称し、市内の自然風景・史跡を保存する活動を以前から行っています。
この長良神社の他に「躑躅ヶ岡」「城沼」「茂林寺」「正田醤油記念館」など。
織物業が盛んであった両毛地区
館林を含む、群馬・栃木両県にまたがる両毛地区は、昭和中期ころまで織物業が盛んにおこなわれていました。現在でも数は少ないですが、織物の工場が稼働しています。
両毛地区の西端に位置する、同じ群馬県の桐生市では養蚕による絹織物が盛んであったのに対し、両毛地区の東端に位置する館林では、綿花からなる木綿織物が盛んでした。
この中間地である栃木県足利市、佐野市などでは、その両方の織物業が行われていたようです。
両毛地区では足利市の織姫神社が最も有名であり、市民の憩いの場になっています。
複数の輿(こし):「神輿(みこし)」が保管されていました。
総構えの城・館林城
館林城は、全国でも数は多くない総構えの城です。城周りの武家屋、商屋、町屋が土塁と堀で囲われていました。
館林は、南に利根川、北に渡良瀬川のある平野部で低湿地にあるので、水害が起き易い地形です。河川には現在のように堤防などなく、雨季には頻繁に氾濫があったと推測されます。
そのため、かつての館林周辺地域は、今よりも沼池が多く、現在ある城沼、近藤沼、多々良沼の他にも幾つもの池沼が存在していましたが、近代になり埋め立てられ田畑に変わりました。
館林の近隣には、同じような土地柄として現・埼玉県行田市の忍城、羽生市の羽生城が存在していました。それぞれの城とも、低平地にあり水害を受けやすい地域です。
館林城を総構えとしたのは、そのような地域であるため、河川の氾濫が起きても市中に被害が及ばぬよう、城だけでなくその城下全体を保護できるよう土塁と堀で囲ったのであろうと思われます。
(右側:土塁 左側:堀跡)
残りは埋められて駐車場になっています。
(左側:土塁 右側:堀跡)
館林城総構えの最盛期の土塁と堀。部分的に失われていますが、概ね残存しています。
●が長良神社の位置です。
(出典:まちあるきの考古学 館林)以下がリンクです。
邑楽護国神社(招魂社)
長良神社に隣接した南には「邑楽護国神社」があります。
護国神社は、神社本庁傘下の宗教法人で、初めは招魂社と言い、明治天皇が幕末から明治維新前後にかけて国事に殉難した人達の霊を祀った各地の招魂場を、太平洋戦争前の昭和14年に改称したものです。
この邑楽護国神社は、初めはここから西南西へ5kmほどの所にある「旧近藤村大谷原」にあった調練場に祀られましたが、明治14(1881)年4月に現在地へ遷座されたとあります。
調練場とは練兵場のことで、兵士を教育・訓練する施設です。
当然の事ながら、今は近藤村大谷原に調練場はなく、現在は大きな工業団地となっています。
館林市が市政となったのは、1954年に館林町と多々良村など計6村が合併してからなので、1881年にここに遷座された時も邑楽郡でした。神社名称は「邑楽護国神社」が継続されています。
注連縄は新しく綺麗に掛けられています。
「彰忠碑」とは、日露戦争などの戦没者を慰め、従軍者を顕彰する忠魂碑(ちゅうこんひ)の一種とのことです。以下リンク。
文字の書は陸軍大将 松木直亮(まつきなおすけ)。
「盧日支事變(変) 記念」と刻まれています。
この彰忠碑は、昭和9年に「盧日支事變」(年代から考察すると満州事変を指すと思われます。後に支那事変と呼ばれるようになる)の従軍を記念して建てられたようです。
昭和初期、戦争が身近にある時代であったゆえの碑です。
彰忠碑の北側には、英霊塔があります。
護国神社の敷地南側の端には「日露戦役記念碑」が建てられています。
刻字の元の書は「元帥 侯爵 山縣有朋」となっています。
護国神社は、やはりもともと国事での戦役による殉難について祀られた社であるため、戦役記念やその英霊を祀る碑が多くあります。
太平洋戦争後、日本は法律によって戦争放棄が定められましたが、戦前は、戦役への出征は名誉な事とされていたため、多くの碑が造られました。
そしてそれらは、取り壊される事なく残されています。
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