
栃木県 足利市。
足利学校で有名な足利市の東端に、あまり知られず存在する観音像群があります。
西場百観音。
小さな山の上に、百の観音像が並んでいます。
昔は、勧行寺と呼ばれる寺が存在し、修行場として盛えた、と書かれています。
今は、その百観音が残るだけです。
百観音様は、周辺の住民の人々により大切にされ、保存状態が良いです。

離れた場所から西場百観音を見ています。中央の小高い山の中腹に百観音はあります。

昔の石で造られた道標。
「右 赤見田沼道」、「左 富田足利道」と書かれています。

左の仏塔は、勢至菩薩供養塔。


廻國供養塔です。

両方の石塔の説明板です。
右説明の勢至菩薩供養塔は、1796年にこの地にあった勧行寺住職、円海により造立されたとあります。勧行寺が存在した頃から、ここに建っている事になります。
左説明の廻國供養は「行者 源蔵」が日本を二返(二度)廻國(国を廻った)を成し遂げたものとあります。勧行寺は、修行の寺であったのだとすれば、修行の一つとして日本を廻ったのでしょうか。

更に、登り口の前に石造物が並んでいます。

気になる像がありました。

庚申塔に「三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)」と思しき彫刻がありました。
左から「言わざる」「聞かざる」「見ざる」と思われます。

調べると、庚申塔に彫られる事が多いのだという。
見ざる、言わざる、聞かざると言えば、日光東照宮が有名だが、驚きや、そのルーツはシルクロードを経て遥か西方の古代エジプトやアンコールワットに由来するかも知れないのだと。

「西場百観音」の説明板です。

登り口の傍にあるお地蔵様。
顔と頭部が落とされているのは、明治時代の「廃仏毀釈」によるものでしょうか。他の寺社でも多く見られます。

お地蔵様の傍から登って行きます。

少し登るとすぐに、写真の小さな社のある広場に着きます。左奥には「大小」の大看板で有名な大小山が見えます。
社の前の広場は広く、草が刈られ、綺麗にされています。
そして、写ってはいませんが、左の方に木製ベンチが置かれ、この小高い場所から周囲の田園を見渡しながら休むことが出来ます。


社の中には、観音像が祀られています。

隣には「勧行寺」跡を記した説明板があります。
これがなければ、かつてこの地に寺があった事は、解らないと思います。

社から百観音に登る前には、写真のような穴があります。
似たような穴は、この近くの大小山でも見られ、かつて修行者がこもった穴だとされています。
この穴も、寺があった時代、修行者に使われていた可能性があります。

更に少し登ると勧行寺の「鐘楼」跡地を示す説明があります。

鐘楼跡地は、6畳程度の平地になっていて、現在は一本の木が立っています。

そして、その上に「百観音」が置かれています。
百観音は三列あり、南から「西国」「坂東」「秩父」の順に並んでいます。

一列目には三十三の観音様に「西国三十三所」が刻まれています。

二列目には三十三の観音様に「坂東三十三所」が刻まれます。

三列目には三十四の観音様に「秩父三十四所」が刻まれます。

顔の感じなど、似ている像もありますが、全てが異なる観音様です。




東側から2列目、3列目の百観音を見ます。

百観音の更に上には動物除けの柵が巡っていますが、一部扉になっており開けて小高い山の頂部まで登る事ができますが、そこは少し平坦部があり、写真のような人工の石が転がっています。かつて寺があった頃のものかもしれません。
平坦部の広さは、横は10m程度しかなく、堂宇が建てられるほどの広さはありません。説明板によれば修行が行われた寺なので、規模も大きければ建物の数も複数存在したのではないかと思われるのですが、しかしながら、参道跡などもないので、どのような伽藍か想像するのが難しいです。
更に奥に行けばそのような場所もあるかも知れないのですが、藪が深く、踏み跡も不明瞭なので、特に探索はしませんでした。

観音様は、小高い山の上から、この地を見守ってくれています。
御祭神 西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所 計百体の観音像
観音様の御利益 苦難除去、病気平癒、厄除け、開運、極楽往生など
お守り なし
御朱印 なし
参拝者数 少ない
参拝所要時間 約15分
駐車場 登り口の右側30m付近に3台程度の空きスペース
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