栃木県 佐野市 植下町。
佐野市の市街地から南へ約2kmの、佐野市台地の南西の端に「赤城神社下の宮(佐野赤城神社)」があります。
創建は西暦55年 創建時の名称は「狭島大明神」
この神社は、創建は景行天皇の時代、西暦55年とされ「彦狭島王命」を祀る「狭島大明神」であったとのこと。
その後、俵藤太秀郷(藤原秀郷)が平将門討伐を祈願(藤原秀郷は、他にも「宇都宮二荒山神社」や足利市の「鶏足寺」などに将門討伐祈願をしています)し、これが成就した事で社の普請がなされる事となります。
その際、上毛野(かみつけの:現・群馬県)の赤城神社(群馬県前橋市三夜沢)より日本武命(やまとたけるのみこと)を勧請合祀し、名称を狭島改め赤城大明神とし、上毛野の宮を上の宮、下毛野(しもつけの:現・栃木県)を下の宮と称しました。
御祭神は「狭島王命」と「日本武命」です。
戦時中、神社内の森に戦車が隠され、部隊員には「司馬遼太郎」がいた
佐野赤城神社には、終戦直前の数か月間に佐野に配備された戦車部隊の車両が隠されていた歴史があります。また、その戦車部隊には後の作家となる司馬遼太郎が居たようです。
この近くにある植野公民館敷地内にも、司馬遼太郎の縁のあった出来事が下写真と同じ銘板を使い記されています。
赤城神社の鳥居を過ぎるとすぐ右手に手水舎があります。
休日の朝9:00頃に訪れましたが、本殿の扉が開かれ外から本殿内を見る事ができました。神社には境内の西側にある社務所にて管理されており、正月や縁日にはお守りも売られています。
ほか、祈祷も受付をしており、正月や縁日以外については神社に連絡し予約をする事で行って頂けます。
藤原秀郷が平将門を討ち取った後、武具を祝納した塚(古墳)がある
この赤城神社には、当ページの題目にもありますが、あまり知られていない事ですが「藤原秀郷」が平将門討伐後に、武具を祝納したという言い伝えがあります。
藤原秀郷は、居城・居館のある佐野に戻った時、何故この赤城神社に武具を祝納したのか。
佐野市には、市街地に近いやや北西の場所に朝日森天満宮という神社がありますが、朝日森天満宮は社のHPによれば、藤原秀郷公七代の孫、足利家綱の時代に唐沢山城内に勧請されたのが始まりとされ、その後の慶長7年(1602年)に今の場所へ遷座されたとあります、故に秀郷の時代にはまだ無かった事になります。
そのため、秀郷の時代に既に存在していたこの赤城神社(前述の通り当時は狭島大明神)に武具を納めたのかも知れません。
下写真の四ツ塚についての説明板です。
この案内板は、四ツ塚のうち「差物山」と「具足山」の間にある道路の西側に建てられており、赤城神社本殿の東側から回り込むように進むと見ることができます。やや気づきにくい場所に建てられています。
ただ、この「四ツ塚」は、武具祝納のために造営されたものというよりは、それ以前からある古墳群ではないか、と考えられます。
地形的にも、赤城神社は佐野台地の南西のへりに位置し、実際にこの近辺には他に古墳と見られる塚が存在していること、また各地にみられる古墳は台地や大きな河川の川岸など少し高く見晴らしの良い土地に造営されている場合が多いことから、恐らくは以前からある古墳を祝納場所として利用をしたのだろうと思われます。
将門討伐に使用した武具のうち「兜」は宇都宮二荒山神社に伝わっている
ちなみに秀郷が平将門の討伐に使用した武具のうち「兜」については、討伐祈願をした神社の一つであり、将門を討つための霊剣を授かったという「宇都宮二荒山神社」に今も伝わっているとのことです(藤原秀郷-Wikipedia 参照)
グーグルマップ航空写真で見ると「四ツ塚」は概ね並行して配置しているのが解ります。
①白幡山 ②具足山 ③差物山 ④幕山 です。
それぞれの写真を掲載しますが、このうち④「幕山」は、西側の道路からは住宅があるため見ることはできず、東側の「第2植野こどもクラブ」の駐車場からしか見られません。このあとに掲載している写真は、施設にお断りのうえで撮影をしたものです。
①白幡山。赤城神社の北西にある駐車場から神社へ歩いてゆくとすぐに目に入ります。墳頂部には小さな社が建てられ、傍まで登る階段もあります。
②具足山。赤城神社本殿のほぼ真裏、やや解りにくいですが写真にある摂社の右側のやや太い樹木の付近に、こんもりとした塚が残っています。
③差物山。神社北東の道路のすぐ向かい側の住宅地との間に、開発をされずに残されています。
④幕山。竹林に覆われています。前述の通り、第2植野こどもクラブの駐車場からしか見ることができません。施設にお断りして敷地に入り撮影しました。フェンスで囲われ、塚自体は崩れないよう底辺のまわりに低い山留が作られています。
この「四ツ塚」については赤城神社の案内板で初めて知ったのですが、他にこの記述のある物を私は知りません。とても重要な塚でもあり、古墳でもあると思うので、地域をはじめ世に伝える価値のある遺産ではないかと思います。
私個人的としては、きちんと維持管理をして後世に伝えていただきたい史跡の一つでもあります。
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