栃木県 足利市 知られざる名刹 藤原秀郷が平将門討伐祈願をした 鶏足寺 藤原秀郷ゆかりの地を訪ねる① 

寺の名の由来は平将門と藤原秀郷

栃木県足利市にある、鶏足寺。寺としては珍しいこの名称には、その由来となった出来事があります。

北関東には、藤原秀郷に因んだ史跡が数多く存在しますが、この名称にも藤原秀郷との関わりがあります。

はじめに、藤原秀郷と平将門にまつわる伝説について記します。

藤原秀郷 - Wikipedia
鶏足寺 公式HPより

平将門が関八州(現在の関東地方)巻き込んだ天慶の乱を起こした際、強大な将門軍に対し苦境に立たされた秀郷は、世尊寺(後の鶏足寺)の定宥法印に勅願により将門調伏の法を修することになった。

五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。

満願の日、さすがに疲れ果てた定宥法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足の鶏が血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかに時の声を上げる夢をみました。

はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついており、定宥法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。
すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。
お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。

平将門が討伐されたのは、この鶏足寺のある足利市小俣の南、渡良瀬川の少し下流だと言います。

その近辺には、将門に因んだ場所、伝説などが残されています。

この鶏足寺もその一つで、打ち取られた将門の足がこの鶏足寺へと落ちて葬られたとのことです。伝説の残る寺社はいずれも渡良瀬川付近の両岸、栃木県足利市、群馬県太田市に存在します。

悲しき姫の伝説

そして、その伝説の話の中に登場する、将門の愛妾とされる「桔梗の前」や「桔梗姫」と呼ばれた一人の女性。秀郷と通じていたとされ、それによって将門は打ち取られたとも言われている。

そのため「桔梗」についてはこの地区では今でも忌み嫌うものとされています。

とても興味深い言い伝えですね。

話しが少し逸れてしまいましたが、鶏足寺は寺の墓地前に駐車場があり、車を降りてすぐに境内に行くことができます。

入場塚(即身仏の塚)

ですが境内に向かう前、駐車場と境内との間に、小さな塚があります。これは冒頭で記した定宥法印の「入定塚」(即身仏)です。東北地方などではいくつもありますが、関東では数えるほどしかない珍しいものです。

塚全体は、長年の風にも浸食など見られず、築造時の形を留めているように見えます。塚の北面には築造時のものと思われる、僧の墓に多く見られる先端が丸い石塔が礎石から倒れて横たわっています。

お守りを購入する際に、寺の人に尋ねると「少し荒れてしまっていて・・・」と仰っていました。

本堂を奥から撮影。

広い境内

境内はに綺麗に整備されており、本堂の他、護摩堂、焔魔堂などがあります。本堂の隣には「慈猛会館」があり、正月以外はここでお守りが売られています。御朱印もあります。

焔魔堂には、堂の中に閻魔様がおられます。写真は撮りませんでしたが、多彩な色使いのされた閻魔様で、怖すぎずに威厳のある閻魔様です。

その他「間引き地蔵尊」や「延命観音」など仏像も多く建てられています。写真は護摩堂手前の階段傍にある不動明王像。それほど大きくありませんが、素晴らしい。

全盛時には多くの堂宇があった

今は緑に覆われていますが、境内の周辺には往時に建物が建てられていたであろう平地が多く存在します。全盛時は山内に24院・48僧房があったと言います。かなりの規模だったのでしょう。

本堂をほぼ中心として東西約100m以上、南北60m以上ほどになるでしょうか。

この鶏足寺は、まだ世尊寺であったころ、下野と縁の深い、当時比叡山に居た「慈覚大師・円仁」によって、山号と院号がそれぞれ「仏手山」「金剛王院」と命名されています。鶏足寺は、円仁和尚とも縁があるのです。

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