群馬県 みどり市 大間々町。
ここに「大間々神明宮」というお宮と「はね瀧道了尊」があります。
伊勢神宮と同じ御祭神を祀る 大間々神明宮
大間々神明宮は、伊勢神宮と同じ神宮造で、慶長4(1599)年から明治12年まで21年毎に式年遷宮を行っていたお宮です。
式年遷宮の行事は、明治12年の火災、翌々年と明治14年明治期の2度の火災によって、再建が不可となってしまいます。そして、氏子たちの経済的負担が大きく、社殿を縮小して建設がされます。
その後、鎮座650年、遷座400年を記念して、人々からの寄進を募り平成12年に国内産檜を用い現在の社殿が建てられます。
遷宮が途絶えてしまった事はとても残念ですが、現在の立派な社殿の様子から、この地域の人々の神宮への信仰の深さが窺えます。
写真は、2023年1月中旬の神宮の様子です。正面が本殿、左側の建物はお守りが売られています。また、写ってはいませんが右側奥には高床式の社殿らしき建物、右側の灯篭の隣には、神楽殿が建てられています。
敷地は広く、本殿に向かい右側には広い土地があります。遷宮を行っていた時代はここがもう一つの社殿の土地だったのでしょうか。
本殿を近くから写しています。伊勢神宮と同じ造であるのが解ります。
平成12年の再建から20年以上経ちますが、年月を感じさせない佇まいです。
神社入口付近にある神明宮由緒。
御祭神は、天照皇大神と豊受毘売神です。
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)は伊勢神宮「内宮」の御祭神で日本神話の主神として登場する神であり、豊受毘売神(とようけのひめのかみ)は豊受大神(とようけのおおかみ)とも呼ばれており、伊勢神宮「外宮」の御祭神でもあります。そして、二神とも女神と解釈されています。
やはり伊勢神宮と由縁があるのでしょうか。
他、大間々神明宮には、本殿の左奥に、摂社が幾つか祀られています。
そのまま本殿左奥に進むと、下写真の「はね瀧道了尊」と、高津戸峡に架かる橋「はねたき橋」の近くまで行く事が出来ます。
ねじれた子供の心をなおす はね瀧道了尊
「はね瀧道了尊」
地元の方々以外は、あまり知られていない名所です。
ねじれた子供の心をなおす、カラス天狗様が祀られています。
なお、道了尊の「道了(妙見道了)」という名の僧については、神奈川県南足柄市にある「大雄山最乗寺」にその出自があるとの事です。道了信仰はこの最乗寺から始まっています。
道了を祀る社は全国各地にあり、ちなみにこのサイト内にも「道了大権現」について紹介をしています。
はね瀧道了尊の縁起です。
碑文によれば、かつて、はね瀧道了尊は現在地よりも約100mほど北の斜面を下った渡良瀬川河岸にあったそうですが、1947年のキャサリン台風によって、道了尊と、当時傍にあった滝の湯、茶店もろとも流されてしまったとあります。
グーグルマップの衛星写真でその付近を拡大して見ると、渡良瀬川河岸の岩場に、階段と構築物の遺構のようなものが少し見えます。
近くには渡良瀬渓谷鐡道が通っており、かつての道了尊跡へと至る道はわからないのですが、降りられるのなら行ってみたいと思っています。
手水舎です。
この手水舎、手前側の屋根下にセンサーがあり、人が居ない時は水が出ておらず、近づくと水が流れ出します。
これが、ねじりん棒の仏様、カラス天狗様です。不動明王のように背部に炎があります。
右側には「すなをなれかし」の文字が。
境内にある「天狗の大下駄」。
不動明王様も祀られています。
はね瀧道了尊の全景。
境内は広くはありませんが、一般的な神社とは異なり、興味深いです。
はね瀧道了尊から、北道を戻ると、はね瀧橋があり、橋を渡り高津戸峡沿いにある遊歩道へと道は続きます。
渡良瀬川の水辺まで下りられる所もありますが、渓谷沿いには柵はなく、当然の事ながら深みもあります。雨の後など流れが強かったり水が多い時は危険なのでご注意ください。
渓谷沿いには「甌穴(ポットホール)」と呼ばれる、水流によって回転した石が削り作られた自然の丸い穴があります。高津戸峡には幾つかあるようですが、近づいて見られるもので最も大きなものは写真の穴で、穴の大きさは直径1.5mほど、石の大きさは直径60~70cm程です。
渓谷に降りて下から見上げる「はね瀧橋」です。
この時は午後で渓谷に陽がさしていませんが、時間帯によってはもっと美しいと思います。
高津戸峡遊歩道は、大間々神明宮から北のはね瀧橋を渡り、高津戸峡遊歩道を通り南の高津戸橋を渡り大間々神明宮まで戻ると約30~40分ほどです。
適度なアップダウンのある、良い散歩道です。
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