源頼朝の勧請により建てられた社
群馬県 玉村町。
関東平野の北西部、群馬県の主要都市である前橋市・高崎市・伊勢崎市に囲まれ、また利根川・烏川・神流川など群馬県内の主要河川が交わり、上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)ほか上信越の山々が見渡せる地に、源頼朝の勧請により建てられた由緒ある神社が玉村八幡宮です。
前述の通り、頼朝の勧請によって1195年に創建されています。ただし、創建時は現在地より2kmほど南方の角淵に建てられたそうです。鎌倉幕府の成立年が1185年とされているので、その10年後です。
ここ玉村町の地名は、大きな河川が周囲にあり、水が溜まりやすい土地であったので「溜まる村」(※溜まる=水)転じて「玉村」となったというのが由来とされています。
かつては大きな河川の絡まる湿地や干潟のような土地であった
改めて、創建時の場所である角淵地区を地図で見ると、角淵は烏川の北岸にあり、すぐに神流川が合流しています。角淵地区を含め玉村は利根川と烏川に挟まれた土地であるため、現在のように大きな堤防のなかった時代には河川の氾濫や洪水などが起きやすかったであろう事が想像できます。
伝承によれば、頼朝は烏川北岸の風景が鎌倉由比ヶ浜に似ていたため角淵に八幡宮を建てたとされているそうです。
繰り返しますが、鎌倉時代には河川に堤防などはないため、利根川や烏川など大きな河川は年ごとに流路が変わり、周囲は干潟のような地形が広がっていた事でしょう。そのような景色を見て頼朝が鎌倉の海岸に見立てた事により、この由緒ある社が建てられるに至ったと言えます。
八幡宮は武神を祀る神社
八幡宮の総本社は大分県宇佐市にある宇佐神宮であり、八幡宮は全国の神社で最も多い神社だそうです。八幡宮の御祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)・第15代 応神天皇」であり、武神とされています。生涯を通して戦の多かった源頼朝にとって、最も崇敬し御加護を祈る神がこの誉田別命である八幡神であったのでしょう。
頼朝は関東で他にも八幡宮を勧請しており、茨城県古河市の鶴峯八幡神社や、同県下妻市大宝八幡宮境内にある若宮八幡宮などがあります。いかに武運の誉れ高き祭神であったかが窺えます。
境内の社務所には、お守りも豊富に売られていますし、御朱印もあります。お守りについては、玉村八幡宮のホームページに詳しく紹介をされています。
玉村八幡宮は、神社にしては少ない寺の山門のような立派な門、大きな楠、神社が角淵から移される前に存在した館跡の水堀、数多くの摂社など、見どころが多くあります。私は午後3時過ぎに訪れたために詳しく見て回る事が出来ませんでしたが、ゆとりをもって訪れた方が良さそうです。
境内の北側には、生命力を感じる「V字の松」
また、境内の北側にある駐車場には「昇龍・勝運字の松」と名付けられた「Ⅴ字」の形をした松があります。写真の右側の幹が主幹で、上に向かって伸びた主幹が下に伸び、後に再び上に向かって伸びた形になっています。ちなみに主幹の目通り(地面から約1.2mの高さ)の直径は50~60cm程度あり、なかなか立派な松です。
どうしてこのような形になったのか。
木の幹が曲がる理由には、雪による重みによるものや、継続した強風によるものがあるようですが、ここ群馬県の平野部については、多くの降雪のある地域ではありませんし、強風については冬は日によって「赤城おろし」と呼ばれる強い空っ風の吹く地域ではありますが、それも毎日ではないので、樹木の主幹の成長に影響を与えるほどではありません。
よく見ると、上に伸びた主幹が一度下に伸びてから上に伸び、また下に伸びてから、再び上に向かって成長して現在枝葉を茂らせている主幹になっているのが見て取れます。不思議です。
松の傍には、説明板が建てられているほか、この松から実った松ぼっくりの一片を入れたお守りも社務所にて売られています。
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